三輪山のふもと初瀬川のほとり、かつて海石榴市(つばいち)があった場所に、仏教伝来を記念する石碑が静かに建っています。
第29代欽明天皇の御代、百済の聖明王(せいめいおう)からささげられた金銅仏と仏教の経典が、初瀬川を船でさかのぼって海石榴市に上陸し、都へ運ばれました。この歴史的できごとを仏教公伝と呼んでいます。

しかし、仏教を受け入れるかどうかをめぐって、蘇我氏と物部氏、中臣氏との間に激しい言い争いが起こりました。仏教を支持した蘇我氏に対して、物部氏は日本の神々を尊ぶべきだと言いはります。欽明天皇は蘇我氏に仏像を預け、拝ませてみることにされましたが、しばらくして疫病がはやると、物部氏は「仏教を受け入れた祟りだ」と責めたて、蘇我氏の建てた寺を焼き払って、仏像を難波の堀江(今の大阪市西区)に投げ捨ててしまいます。
時がたち、第33代推古天皇の御代、役人のお供で飛鳥の都に上った信濃(今の長野県)の本田善光が、難波の堀江で偶然にこの仏さまを見つけ、自らの家に連れ帰っておまつりしました。これが信濃の善光寺のはじまりとされ、金銅仏は善光寺御本尊(絶対秘仏)として1400年以上にわたり日本中の信仰を集めてきました。
三輪山のふもと欽明天皇の都で、この仏さまとのご縁によりわが国に伝わった仏教は、その後、日本独自のあゆみを進め、花を咲かせることになるのです。
海石榴市は日本最古の市場として知られ、八十の衢(やそのちまた)と呼ばれる交通と交易の要衝でした。大和川の水運と山辺の道、上つ道、横大路など、水路と陸路の結節点で、欽明天皇の磯城金刺宮に隣接して、外港の役割を果たしていました。
538年(『日本書紀』では552年)、この地で日本と仏教との縁が結ばれ、その後、仏教は日本人の精神文化形成に多大な影響を与え続けてきました。後半の物語は『善光寺縁起』に記されており、伝説的な要素を含むものの、善光寺の御本尊は1400年以上にわたり、日本最古の霊仏として民衆信仰の拠り所になってきました。 2038年は、538年に仏教が公伝してから1500年の節目を迎えます。仏教が日本にもたらした深遠な恩恵を振り返り、その遺産を未来につなぐ機会となるでしょう。


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