ほんでみぃアカデミー 研究ノート03
― 三輪山絵図から浮かび上がった一つの仮説
三輪坐惠比須神社の拝殿には、つい最近まで「蔀戸(しとみど)」という、古い形式の建具が使われていました。上半分を外側へ跳ね上げて吊り、下半分は取り外すことができる「半蔀(はじとみ)」と呼ばれる形式です。平安時代の寝殿造などにも使われた伝統的な建具で、神社や寺院の建築にも受け継がれてきました。
令和8年(2026)、三輪坐惠比須神社の御鎮座1100年を記念して、この蔀戸は従来の意匠を踏襲した引き戸に造りかえられました。
ところで、この拝殿の建物を見ていて、以前から気になっていたことがあります。室町時代の三輪山絵図に描かれている、ある建物と形がそっくりなのです。
三輪山絵図に描かれた地蔵堂
三輪山絵図は、神仏習合の時代の三輪山とその周辺の様子を描いた絵図です。大神神社の境内には、現在は失われた多くの寺院や堂宇が描かれています。
その中に、三輪の惠比須社を描いた部分があります。絵図には、「大行司鳥居」(現存せず)と「圓備周」(えびす)社の本殿、そして「地蔵堂」と記された建物が描かれています。この地蔵堂は、明治初年の神仏分離によって廃寺となった、三輪山福楽寺の堂宇であったと考えられます。
そこで、絵図の地蔵堂と現在の惠比須神社の拝殿を見比べてみました。
すると、驚くほどよく似ているのです。屋根は入母屋造で、平入りの構造。建物の向きも同じです。さらに、正面と側面の柱の数、建物の周囲に巡らされた縁、正面中央に設けられた階段まで、基本的な構成が一致しています。
単に同じような屋根を持つ建物というだけではありません。建物全体の造りがよく似ているのです。


絵図には拝殿が描かれていない
もう一つ、気になることがあります。
三輪山絵図には惠比須社の本殿が描かれていますが、現在のような拝殿は見当たりません。一方、その近くには、現在の拝殿とよく似た地蔵堂が描かれています。もちろん、絵図に描かれていないからといって、当時拝殿が存在しなかったと断定することはできません。絵師が省略した可能性もあります。
しかし、ここで一つの疑問が浮かびます。
もしかすると、現在の惠比須神社の拝殿は、もともと福楽寺の地蔵堂だったのではないでしょうか。
明治の神仏分離と福楽寺の廃寺
かつて三輪では、神と仏が一体となった信仰が営まれていました。大神神社の周辺には大御輪寺や平等寺などの寺院があり、惠比須社にも神宮寺として福楽寺がありました。
ところが、明治初年の神仏分離によって、その姿は大きく変わります。福楽寺は廃寺となり、本尊の地蔵菩薩は心念寺へ移されたと伝えられています。また、楼門は平等寺へ移築されたとされています。つまり、福楽寺の廃絶に際して、仏像や建物がほかの場所へ移されたという経緯があったわけです。
では、地蔵堂の建物はどうなったのでしょうか。仮に地蔵堂がそのまま残されていたとすれば、これを惠比須神社の拝殿として転用することも考えられます。
神仏分離によって役割を失った仏堂が、神社の祭典を行う建物として新たな役割を与えられた。そのようなことが起こっていたとしても、不思議ではありません。
明治35年の石鳥居
現在、三輪坐惠比須神社の境内に建つ石鳥居は、明治35年(1902)に建立されたものです。この時期に境内の整備が行われたことがうかがえます。現在の境内には石畳が敷かれていますが、これも鳥居の建立と同じころに整備されたのかもしれません。
もしそうであれば、明治初年の神仏分離から明治35年にかけて、惠比須神社の境内が現在に近い姿へ整えられていったという可能性が考えられます。
ただし、鳥居の建立と拝殿の移築が同時期であったという記録は、今のところ確認できていません。拝殿の移築が行われたとすれば、それは福楽寺の廃寺直後だったのか、それとも後年の境内整備の際だったのか。この点も調べてみたいところです。

半蔀が伝える建築の記憶
ここで、冒頭の蔀戸の話に戻ります。
御鎮座1100年の改修まで、惠比須神社の拝殿には半蔀が使われていました。上部を跳ね上げ、下部を取り外せば、柱と柱の間を大きく開放できます。祭典の際には、建物の内と外を一体的に使うことができる構造です。半蔀は神社建築にも用いられるため、それだけで寺院の建物だったという証拠にはなりません。
しかし、三輪山絵図に描かれた地蔵堂と現在の拝殿の構造がよく似ていることを考えると、建具の形式も含めて、建物の来歴を調べる価値がありそうです。現在の拝殿には、古い柱や梁、建具の取り付け跡など、建物の過去を物語る痕跡が残っているかもしれません。
本当に地蔵堂を移築したのか?
ここまでの話は、あくまでも一つの仮説です。
三輪山絵図は室町時代のものとされますが、そこに描かれた地蔵堂が明治初年まで同じ建物として残っていたかどうかはわかりません。また、現在の拝殿がいつ建てられたのか、福楽寺の堂宇がどのように処分されたのかについても、さらに調査が必要です。
これから確かめたいことはいくつもあります。
- 福楽寺の地蔵堂は、いつ建てられ、いつまで存在していたのか。
- 福楽寺の廃寺に際して、堂宇はどこへ移されたのか。
- 惠比須神社の拝殿は、いつから現在の場所に建っているのか。
- 明治35年の石鳥居建立と、境内整備にはどのような関係があったのか。
- 現在の拝殿に、移築や改造の痕跡は残っているのか。
神社に残る記録や明治期の神社明細帳、古写真などを調べるとともに、建築の専門家にも見ていただきたいと思っています。
建物が語る、三輪の歴史
もし、この仮説が正しかったとしたら、どうでしょう。
明治の神仏分離によって姿を消した福楽寺の地蔵堂が、実は惠比須神社の拝殿として、その後150年以上にわたって使われ続けていたことになります。仏さまをおまつりしていた建物が、神さまをおまつりする建物となり、三輪の人々の祭りや祈りを支え続けてきた。そう考えると、何気なく見ていた拝殿の姿が、少し違って見えてきます。
もちろん、調べた結果、まったく別の来歴が明らかになるかもしれません。それもまた、面白いことです。
古い絵図と、今もまちに残る建物を見比べることから生まれた一つの疑問。
「惠比須神社の拝殿は、福楽寺の地蔵堂だったのか?」
ほんでみぃアカデミーの研究テーマとして、これから少しずつ、その謎を追いかけてみたいと思います。



コメント