参詣講社冊子に見る三輪

江戸時代から明治時代にかけて、伊勢参りや大和の社寺参詣に出かける人々のために、道中の宿や名所を案内する冊子が作られていました。こうした冊子には、参詣者の組織である講社が指定する旅宿の名前や所在地、道中の案内図などが掲載されています。
三輪もまた、大神神社への参詣地であるとともに、初瀬や伊勢へ向かう道筋に位置し、多くの旅人が行き交う町でした。

ここでは、各地の講社冊子から三輪に関する部分を抜き出し、宿場としての三輪のまちの成り立ちや、当時の旅宿や参詣の様子を伝える史料として紹介します。

伊勢御師講社の冊子

伊勢参りに関わる講社の冊子です。三輪を含む道中の旅宿や案内が掲載されています。


講名称不明(刊行年未詳)

「一り(追分より) 三わ ⛩まへ右かわ出口 (しるし) たけだや甚七」
「三輪神社名所多し 此宿梅川忠兵衛遊茶屋 名物そうめんあり」

「一り(柳本より) みわ ⛩まへ左りかハ (しるし) たけだや甚七 梅川忠兵衛遊茶や」 
「三輪神社 名物そうめん」

印判版木彫刻師 奈良東向中町中ほど西がわ 中澤活平

大坂から高野山、大和巡りの後、伊勢参宮、西京(京都)を経て大坂に戻る道中案内の冊子です。


一新講社(明治9年)

「みわ 一り(追分より) (しるし)竹田や甚七 三輪大明神大和一ノ宮古跡?阿り 此所そうめん名物なり」

諸海道定宿 開 一新講社 社中印取
明治九年子一月


一新講社(明治11年)

「一り(柳本より)みわ 明神のまへ左りがわ (しるし)竹田や甚七」
「三輪神社 名物そうめん 此宿 梅川忠兵へ 阿そび茶屋」

明治十一年寅一月改正之証 開 一新講 開 一新講社 同盟周旋方
印判版木彫刻師 奈良東向中町中ほど西がわ 中澤活平


一新講社(刊行年未詳)

「一り(追分より)みわ 入口より八丁目⛩右がわ たけ田や甚七 神武天皇 たつた 法りうじ 追分宿にて御尋可被成候(お尋ねなさるべく候)」
「三輪神社 梅川忠兵へ 阿そび茶屋なり 名物そうめん」

開 一新講社 同盟周旋方
道中記製造所 伊勢山田豊川町 足立新平

大阪・京都間は鉄道が開通していた時代です。


真誠講社道中図(明治26年印刷)

「一り(追分より) みわ 入口より八丁目⛩まへ右がハ 竹田屋甚七 神武天皇 たつた 法りうじ 追分宿にて御尋可被成候(お尋ねなさるべく候)」
「三輪神社」

開 一新講社 同盟周旋方
道中記製造所 伊勢津西町 大竹武次郎


真誠講(刊行年未詳)

「一り(追分より) みわ ⛩まへ左りかわ (しるし)高田や勘平」
「三輪神社 此宿 梅川忠兵へ 阿そび茶や 名物そうめん」

E通E 発起 内國通運會社 真誠講 講元 佐々木荘助
印判版木彫刻師 奈良東向中町中ほど西がわ 中澤活平


真誠講社道中図(明治26年印刷)

明治廿九年 三都 改正 真誠講社
明治廿六年十二月 印刷者 三重縣津市西町 大竹堂

真誠講社道中図を含む資料です。表紙に明治29年(1896)、奥付に明治26年(1893)の記載があり、両者の関係は未詳です。大阪・奈良間、王寺・高田間には既に開通していた鉄道が描かれています。


竹田屋甚七引き札

「やねに(しるし)此印有 御定宿 みわ明神とりいまへ 神武天皇 はせ とうのみね 追分 竹田や甚七(印「田村嘉徳」) 梅川忠兵衛遊ひ茶屋 名物そうめん所」

引き札とは、宿の宣伝用ちらしです。


参詣道中の宿や名所を紹介した冊子です。三輪の掲載箇所を抜粋しています。講社名や刊行年代については、分かる部分を記載しています。三輪を含む道中の宿や案内が記されています。

三輪の旅宿として竹田屋甚七と高田屋勘平が登場します。両宿は道を挟んで向かい合っていたと考えられ、現在もそれぞれの跡地をたどることができます。各講社冊子では、旅宿の所在地を道の右側・左側で案内しています。左右の表記は奈良向きと伊勢向きの進行方向によって使い分けられており、相互に矛盾していません。これらの記述から、竹田屋と高田屋が道を挟んで向かい合っていたことがわかります。
また、道中図には三輪をはじめ、大和各地の社寺や名所、宿場などが描かれており、当時の参詣旅行の道筋を知ることができます。


史料について

掲載画像は、各冊子のうち三輪に関係する部分を抜粋したものです。
冊子名、刊行年代、掲載内容などについては、今後の調査により随時追記・訂正します。