――三輪山絵図を読み直す
三輪のまちの成り立ちを調べると、中世の三輪市は、もともと平等寺の門前にあり、上街道の発達に伴って次第に西へ移り、現在の三輪の市場町ができた、という説明に出会います。この説のもとになっているのが『大三輪町史』で、その後の『桜井市史』にも、ほぼ同じ内容が引き継がれています。
ところが、この説明の根拠とされる「三輪山絵図」を詳しく見ていくと、どうも違う景色が見えてきます。
三輪の市は、本当に平等寺の門前から西へ移ってきたのでしょうか。
今回は、この問題を絵図に描かれた社寺や道筋から考えてみたいと思います。
『大三輪町史』と『桜井市史』の説明
まず、『大三輪町史』には次のように書かれています。
中世三輪市の古い姿は、平等寺門前市として丘の中腹に発展するが、上街道の漸進的な発達に伴って、次第に西に下がった。大神神社所蔵の三輪曼荼羅は室町末期のものと目されているが、平等寺門前には朱の大鳥居を描き「大行事鳥居」と注記し、その左側に「円備須」と「地蔵堂」の二宇を明らかに描いている。さらに文化文政ごろに描かれたと思われる平等寺境内の地図によると、恵美須神社前の部分には「市場恵比須辻」と注記している。これらの図により室町期以降の三輪の市場は平等寺表参道鳥居前にあり、ここに市神恵比須を祀って交易を行っていたことが明らかである。
『桜井市史』の「三輪市の発展」にも、ほぼ同じ文章が掲載されています。つまり、両市町史は、三輪の市が初めは平等寺の門前にあり、その後、西へ移ってきたと説明しています。
しかし、引用された絵図には、市場の建物も、交易の様子も描かれていません。
それでは、なぜ平等寺門前に市があったと考えられたのでしょうか。
三輪山絵図は何を描いているのか
『大三輪町史』が根拠としているのは、大神神社所蔵の「三輪曼荼羅(三輪山絵図)」です。室町時代末期のものと考えられており、三輪山を中心に大神神社、平等寺、大御輪寺をはじめとする社寺や、鳥居、参詣路などが描かれています。
この絵図は、一般の町並みを描いたものではなく、三輪山の信仰世界を表した宮曼荼羅です。そのため、町家や商店などは描かれていません。
しかし、社寺の配置や道筋には、当時の地理が反映されていると考えられます。そこで、絵図に描かれた場所を、現在の三輪の地理に照らしてみることにしました。
白山・薬師堂と御鏡池が位置を教えてくれる
この絵図を読み解くうえで、重要な手掛かりが三つあります。
一つは白山、もう一つは薬師堂です。
この二つは現在も薬師堂地区の素盞嗚神社境内に残っており、絵図に描かれた位置を実際の場所と照らし合わせることができます。
さらに、絵図には「御鏡池」が描かれています。この池は現在はありませんが、現在の三輪駅付近にあったことがわかっています。
これらを手掛かりに絵図を見ると、社寺や道筋の位置関係が、現在の三輪の地理とよく一致していることに気づきます。
そして、ここで重要になるのが、「圓備周」「地蔵堂」「大行事鳥居」の三つです。

圓備周は現在の惠比須神社ではないか
絵図には「圓備周」と記された建物が描かれています。
この「圓備周」は「えびす」と読むものと考えられ、現在の三輪惠比須神社に当たる可能性が高いと思われます。
その近くには「地蔵堂」が描かれています。三輪惠比須神社には、かつて福楽寺という神宮寺がありました。この地蔵堂は、その福楽寺の堂宇だったのではないかと考えられます。福楽寺については、明治の神仏分離によって廃寺となった際、本尊の地蔵菩薩が心念寺に移されたと伝えられています。
また、現在の惠比須神社拝殿が、この地蔵堂を移築したものではないかという可能性については、別の記事で考察しました。
関連記事「惠比須神社の拝殿は、福楽寺の地蔵堂だったのか」 →
こうした由緒と絵図の位置関係を合わせて考えると、圓備周と地蔵堂が現在の惠比須神社付近に描かれていることは、十分に理解できます。
大行事鳥居は、平等寺の門前にあったのか
ここが、今回の考察で最も重要なところです。
『大三輪町史』は、三輪曼荼羅について、
平等寺門前には朱の大鳥居を描き「大行事鳥居」と注記し、その左側に「円備須」と「地蔵堂」の二宇を明らかに描いている。
と述べています。
しかし、絵図をよく見ると、大行事鳥居から大行事社まで、長い松並木の道が描かれています。大行事社は、平等寺に隣接する神社です。
つまり、大行事鳥居は、大行事社のすぐ近くにあった鳥居ではなく、そこへ向かう長い参詣路の入口に建っていた鳥居ではないでしょうか。神社の一の鳥居が、社殿から離れた場所に建てられることは珍しくありません。
実際、三輪山絵図には、大神神社の一の鳥居から社殿までの長い参道も描かれています。この大神神社の参道と、大行事鳥居から大行事社へ続く参詣路を比較すると、両者の長さの比率は、現在の地理とおおむね整合します。
さらに、大行事鳥居の付近を通り、初瀬方面へ続く道も描かれています。これは、現在の旧上街道に相当する道筋と考えられます。
こうして、白山・薬師堂・御鏡池の位置と、二つの参詣路、旧上街道の道筋を合わせて考えると、大行事鳥居、圓備周、地蔵堂の一帯は、現在の惠比須神社付近に比定するのが自然です。
大行事鳥居が大行事社の鳥居であることと、その鳥居が大行事社のすぐ近くにあることは、同じではありません。
『大三輪町史』は、この二つを取り違えたのではないでしょうか。
天正15年には、すでに三輪市場に恵美酒宮があった
ここで、もう一つ重要な史料があります。
三輪惠比須神社には、1587(天正15)年の本殿造営の棟札が残されています。そこには、
「上棟 城上郡三輪市場 惠美酒宮」
と記されています。この棟札が現在の社地での造営を示すものであれば、少なくとも天正15年には、惠比須神社が現在地にあったことを示す有力な史料となります。
つまり、16世紀末には、すでに「三輪市場」という地名があり、そこに「惠美酒宮」が鎮座していたことがわかります。
三輪山絵図に描かれた圓備周を現在の惠比須神社に比定することとも、よく整合します。
ただし、この棟札だけで、市場が開かれていた範囲や、その成立時期までわかるわけではありません。
市が西へ移ったという証拠はあるのか
『大三輪町史』は、三輪市が平等寺の門前から、上街道の発達に伴って次第に西へ下がったと説明しています。
しかし、ここには二つの疑問があります。
第一に、平等寺の門前に市が存在したことを示す史料があるのでしょうか。
少なくとも、町史が挙げている三輪曼荼羅には、市場や町家は描かれていません。また、現在までに、平等寺門前市の存在を裏付ける考古学的な遺構も確認できていません。
第二に、市が平等寺門前から西へ移動したことを示す史料があるのでしょうか。
町史は、上街道の発達をその理由としていますが、市がいつ、どのような経過で移動したのかについては、具体的な史料を示していません。
むしろ、三輪山絵図には、現在の旧上街道に相当する道筋がすでに描かれています。この道の存在だけで当時の交通の発達状況までわかるわけではありませんが、少なくとも「上街道が発達したために市が西へ移った」という説明を、そのまま受け入れることはできません。
三輪市場の歴史を、もう一度考える
三輪の市は、中世から近世にかけて三輪のまちの発展を支えてきた重要な存在です。その成り立ちを考えるうえで、三輪山絵図は貴重な史料です。
しかし、絵図に描かれた大行事鳥居を平等寺の門前に位置づけ、そこに圓備周と地蔵堂があることから平等寺門前市の存在を導き、さらに市が西へ移動したとする従来の説明には、疑問が残ります。
白山・薬師堂・御鏡池という位置のわかる場所を手掛かりに、参詣路と旧上街道の道筋をたどれば、絵図に描かれた圓備周・地蔵堂・大行事鳥居は、現在の惠比須神社付近にあったと考える方が、地理的に整合します。
少なくとも、三輪山絵図は、平等寺門前市の存在や、その西への移動を証明する史料にはならないのではないでしょうか。
もちろん、平等寺門前に市が存在しなかったことまで、現段階で断定できるわけではありません。しかし、これまで定説のように語られてきた「平等寺門前市から市場町への移動」という説明は、改めて検証する必要があると思います。
三輪市場の成立については、『多聞院日記』などの中世史料や、三輪市場に関する地名・古文書をさらに調べながら、考察を続けていきたいと思います。
主な参考史料・文献
- 『大三輪町史』「市場と宿場の発展」
- 『桜井市史』「三輪市の発展」
- 大神神社所蔵「三輪山絵図」
- 三輪惠比須神社所蔵、天正15年(1587)恵美酒宮本殿造営棟札
- 平等寺境内図(文化・文政期とされるもの。原図の特定は今後の課題)
※本稿は、現時点で確認できた史料と現地の位置関係に基づく考察です。新たな史料が確認できれば、随時追記・修正します。



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