三輪の旧上街道沿い、かつて「竹田屋」という茶屋があった場所に、「梅川忠兵衛之碑」と刻まれた石碑が建っています。現在は竹田屋の子孫である田村家の敷地内にあり、傍らにはその由緒を記した石碑も建てられています。
梅川と忠兵衛といえば、近松門左衛門の浄瑠璃『冥途の飛脚』で知られる悲恋の二人です。その物語に、実は三輪の茶屋が登場するのです。
近松の名作『冥途の飛脚』
『冥途の飛脚』は、正徳元年(1711)に初演された近松門左衛門の世話浄瑠璃です。
大坂の飛脚問屋亀屋の養子・忠兵衛と、新町の遊女・梅川との恋を描いた作品で、実際に起こった事件をもとにしたとされています。
梅川に恋した忠兵衛は、ついには預かり金に手を付け、梅川を身請けして大坂から逃げ出します。二人は追手を避けながら、忠兵衛の故郷である大和国新口村(現在の奈良県橿原市)を目指します。
この物語は大きな人気を博し、後には『恋飛脚大和往来』などの改作も生まれ、人形浄瑠璃や歌舞伎で繰り返し演じられてきました。
「奈良の旅籠屋、三輪の茶屋」
『冥途の飛脚』下之巻「新口村の段」の冒頭に、二人の逃避行を語る有名な詞章があります。
借駕籠に日を送り、奈良の旅籠屋、三輪の茶屋、五日、三日、夜を明し、二十日あまりに、四十両、使ひ果たして二分残る
人目を忍んで駕籠を借り、奈良の旅籠屋や三輪の茶屋で夜を明かしながら、二十日余りの間に四十両を使い果たし、残りはわずか二分になったというのです。
「奈良の旅籠屋で五日、三輪の茶屋で三日」と読むこともできそうですが、「五日、三日」と日を重ねて宿泊したという意味にも取れます。いずれにしても、二十日余りは三輪の茶屋だけの滞在日数ではなく、逃避行全体の経過日数と読むのが自然でしょう。
実は、三輪の茶屋での出来事が舞台上で演じられるわけではありません。二人が三輪で過ごしたことは、義太夫の語りによって伝えられるだけです。しかし、芝居を見た人々は、この語りから二人の道中や、三輪の茶屋で過ごした日々を思い浮かべたことでしょう。
明治時代の宿の案内にも登場
近年、奈良市で旅館を営んでいた方から、かつての旅行関係資料のデジタルデータをご提供いただきました。その中には、伊勢参宮などの旅で利用された講社の案内冊子があり、三輪の宿についても記されています。
興味深いことに、明治時代のものとみられる複数の冊子には、三輪の「竹田屋」と「高田屋」という二軒の宿が、ともに「梅川忠兵衛の茶屋」として紹介されているのです。どちらか一軒だけではなく、二軒の宿が同じ由緒を案内していたことになります。
近松の『冥途の飛脚』が初演されたのは1711年。その後、梅川と忠兵衛の物語は人形浄瑠璃や歌舞伎を通じて広く親しまれてきました。
江戸時代から芝居に親しんだ人々にとって、「三輪の茶屋」は物語の中で聞き覚えのある場所だったのかもしれません。
大神神社への参詣や伊勢参宮の途中で三輪に立ち寄り、「梅川忠兵衛の茶屋」と案内された宿に泊まる。そんな楽しみがあったとすれば、現代のアニメや映画の舞台を訪ねる「聖地巡礼」にも通じるものがあります。
もちろん、江戸時代の三輪でいつごろからそのような案内が行われていたのかは、まだわかりません。しかし、少なくとも明治時代には、梅川忠兵衛の物語が三輪の宿の由緒として語られていたことが、講社冊子からうかがえます。


昭和41年に建てられた石碑
竹田屋の跡地に残る「梅川忠兵衛之碑」の傍らには、二人の由緒を記した石碑があります。
そこには、忠兵衛が大和国新口村の出身で、大坂の回漕問屋亀屋の養子になったこと、梅川が京都の生まれで大坂新町の遊女だったこと、忠兵衛が梅川を助けたことから二人が恋仲になったことなどが記されています。
そして、二人は大坂を離れ、
奈良の旅籠屋三輪の茶屋にて二十日余り逗留し其後此の茶屋を立出新の口指して向へりと言ふ
と記されています。
近松の詞章では、二十日余りは逃避行全体の経過日数とも読めますが、こちらの石碑では、三輪の茶屋に二十日余り滞在したことになっています。物語が語り継がれるうちに、三輪の茶屋での逗留という部分が強調されるようになったのでしょうか。
碑文の末尾には、
昭和四十一年六月建之
三輪の茶屋子孫 謹白
とあります。昭和41年(1966)、竹田屋の子孫が、かつての茶屋の跡地にこの由緒を刻んだのです。

梅川と忠兵衛は、本当に三輪に来たのか
ところで、梅川と忠兵衛の物語は実際の事件をもとにしていますが、近松の作品には多くの脚色が加えられています。実際の二人が三輪の茶屋に立ち寄ったのかどうかは、明らかではありません。
竹田屋の跡地には「梅川忠兵衛之碑」が建っていることから、これまで、近松の『冥途の飛脚』に登場する「三輪の茶屋」は竹田屋であると考えられてきました。しかし、今回見つかった明治時代とみられる講社冊子には、竹田屋だけでなく、高田屋も「梅川忠兵衛の茶屋」として案内されています。
そもそも、近松が描いた「三輪の茶屋」は、実在した特定の宿を指すものだったのでしょうか。梅川と忠兵衛の逃避行そのものが脚色を含む物語であり、三輪の茶屋も舞台上で描かれるわけではありません。
そう考えると、近松の物語によって「三輪の茶屋」という文学上の名所が生まれ、後の時代に、三輪の複数の宿がそのゆかりの地として参詣者を迎えていた、という見方もできそうです。
ここで大切なのは、どちらの宿が本当の「梅川忠兵衛の茶屋」だったのかを決めることではないように思います。近松の物語に登場した「三輪の茶屋」が、現実の三輪の宿と結び付き、参詣者に案内され、後世に語り継がれてきたこと。そのこと自体が、三輪の歴史の一部なのです。
竹田屋と高田屋のどちらが本当の「三輪の茶屋」だったのかという問いから、そもそも特定の一軒に決める必要があるのだろうか、という問いへ。
今回の講社冊子の発見は、三輪に伝わる梅川忠兵衛の茶屋の由緒を、改めて考える手がかりになりました。
物語がまちに残したもの
近松が『冥途の飛脚』を書いてから三百年以上が過ぎました。
かつて参詣者でにぎわった三輪の宿も、今ではその多くが姿を消しました。竹田屋も高田屋も、現在は宿として営業していません。けれども、竹田屋の跡地には、梅川忠兵衛の石碑が残されています。
芝居の中では、ほんの短い語りでしか登場しない三輪の茶屋。その言葉が人々の記憶に残り、現実の宿の由緒となり、さらに石碑となって今に伝えられているのです。
一つの物語が、まちに新しい意味を与える。そして、その物語をまちの人々が受け継いでいく。
三輪の茶屋に残る石碑は、そんな文学とまちの関わりを、今に伝えているように思います。


コメント