三輪には、長い時間の積み重なりがあります。
三輪山の祭祀、海石榴市、市場と街道、社寺と社家、三輪素麺、学校や郡役所、鉄道と三輪駅――。
三輪に残る史料や記録をたどりながら、このまちで起きたことを年代順にまとめています。たにぐく堂「ふみくら」の一つとして、三輪の時間の記録を集め、つないでいく年表です。
この年表は、完成したものではありません。新しい史料を見つけたり、これまでの記録を確かめたりしながら、少しずつ書き加えていきます。
※神話・伝承については、歴史上の出来事と区別して掲載しています。
※明治5年以前の日付は、原則として旧暦です。
時代からたどる
神話・伝承 | 古代 | 中世 | 近世 | 幕末・明治 | 大正・昭和 | 平成・令和
神話・伝承の三輪
神武天皇と伊須気余理比売
『古事記』『日本書紀』には、神武天皇が大物主神につながる女性を皇后に迎えたと記されています。『古事記』では、大物主神と勢夜陀多良比売との間に生まれた伊須気余理比売を神武天皇が皇后とします。『日本書紀』では、事代主神と玉櫛媛との間に生まれた媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃とします。
大物主神と倭迹迹日百襲姫
『日本書紀』には、倭迹迹日百襲姫が大物主神の妻となった物語が記されています。夜にだけ訪れる夫の姿を見たいと願った姫が、翌朝、櫛笥の中にいた小蛇を見て驚くという、三輪山の神婚伝説です。
箸墓は、この倭迹迹日百襲姫の墓として『日本書紀』に記されています。
元伊勢・檜原神社
天照大神が宮中を離れて祀られるようになった最初期の地の一つとして、三輪山麓の笠縫邑が記紀に登場します。檜原神社はその伝承地とされ、「元伊勢」と呼ばれています。
古代
崇神天皇の時代――三輪の王都と祭祀
『日本書紀』では、崇神天皇の時代に三輪山麓を舞台とする多くの出来事が記されています。ただし、『日本書紀』が崇神天皇紀に記す年代は、そのまま歴史上の実年代とみなすことはできません。
崇神3年 磯城瑞籬宮に都する
崇神天皇は、都を磯城に遷し、瑞籬宮(みずかきのみや)としました。瑞籬宮は三輪山麓にあったとされ、現在、大神神社摂社の率川神社境外摂社・磯城瑞籬宮跡などにその伝承が残されています。
『日本書紀』の記述では、以後の崇神天皇の政治や祭祀は、この三輪山麓の宮を中心に展開していきます。
崇神7年 大田田根子に大物主神を祭らせる
国中に疫病が広がり、多くの人々が亡くなったため、崇神天皇は神々を祭ってその原因を求めました。
『日本書紀』によると、大物主神が天皇の夢に現れ、自分の子孫である大田田根子(おおたたねこ)に自分を祭らせれば国が平らかになると告げました。天皇は大田田根子を探し出し、大物主神を祭る祭主としました。その後、疫病は収まり、国内は次第に平穏となり、五穀が実ったと記されています。
大田田根子は、のちの三輪君(みわのきみ)の祖とされています。
崇神8年 三輪で神酒を献じ、宴を開く
崇神天皇は、高橋邑の活日(いくひ)を大神の掌酒(さかびと)としました。同年12月、大田田根子に大神を祭らせた際、活日は神酒を天皇に献じ、
「この神酒は 我が神酒ならず 倭なす 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久」
と歌いました。その後、神宮で宴が開かれ、諸大夫は「味酒 三輪の殿の」と歌い、崇神天皇もこれに応えて歌いました。『日本書紀』には、宴の後に神宮の門を開いて天皇が出たことが記されています。
三輪と酒との深い結びつきを伝える古い記録であり、現在まで続く大神神社の酒造信仰を考えるうえでも重要な記事です。
崇神10年 倭迹迹日百襲姫命と大物主神、箸墓
『日本書紀』には、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が大物主神の妻となった物語が記されています。
大物主神は夜にだけ姫のもとを訪れていました。姫がその姿を見たいと願うと、神は翌朝、櫛笥の中に小蛇となって現れます。驚いた姫を恥じた大物主神は御諸山へ帰り、姫は亡くなったとされます。姫は大市に葬られ、その墓が箸墓と呼ばれました。『日本書紀』は、箸墓について「昼は人が造り、夜は神が造った」と伝えています。
崇神10年 四道将軍を各地へ派遣
崇神天皇は、大彦命を北陸、武渟川別を東海、吉備津彦を西道、丹波道主命を丹波へ派遣したと『日本書紀』は記しています。三輪そのものを記した記事ではありませんが、『日本書紀』の物語では、三輪山麓の磯城瑞籬宮を政治の中心として、そこから各地へ将軍を派遣したことになります。
崇神65年 任那の蘇那曷叱知が朝貢
『日本書紀』によると、崇神天皇65年7月、任那国から蘇那曷叱知(そなかしち)が使者として朝貢しました。崇神天皇の宮は磯城瑞籬宮と記されていることから、『日本書紀』の記述に従えば、蘇那曷叱知は三輪山麓の宮廷を訪れたことになります。
三輪が朝鮮半島からの使者を迎える王都として描かれている記事として注目されます。
※『日本書紀』の崇神天皇紀の年代を西暦に機械的に換算すると非常に古い年代になりますが、それをそのまま歴史上の実年代とみなすことはできません。そのため、この年表では西暦に換算せず、『日本書紀』に記された崇神天皇の在位年によって示しています。
3世紀ごろ 纒向遺跡と三輪山麓
三輪山の北西麓に纒向遺跡が展開します。各地から運び込まれた土器や大型建物跡などが見つかり、古墳時代成立期の重要な遺跡として知られています。
同じ時期、三輪山麓には箸墓古墳をはじめとする大型古墳が築かれていきます。
古墳時代 三輪山の祭祀
三輪山中やその周辺では、磐座を中心とする祭祀遺跡が確認されています。
現在の大神神社には本殿がなく、三輪山そのものをご神体として拝する信仰が続いています。
古代 海石榴市
三輪山の南、初瀬川のほとりにあった海石榴市は、交通と交易の要衝でした。
『日本書紀』などに登場し、『万葉集』では男女が歌を交わす歌垣の地としても詠まれています。
538年(『日本書紀』では552年) 仏教の公伝
百済の聖明王から欽明天皇に金銅仏や経典などが献上され、日本に仏教が公に伝えられたとされます。仏教伝来の使節は初瀬川をさかのぼり、海石榴市から欽明天皇の磯城嶋金刺宮へ向かいました。
三輪山麓の初瀬川河畔には古代の海石榴市があり、現在、金屋の馬出橋近くに「佛教傳来之地」の碑が建っています。
608(推古16)年 隋使裴世清を海石榴市で迎える
遣隋使小野妹子とともに来日した隋使裴世清の一行を、朝廷は海石榴市で迎えました。『日本書紀』には、飾り馬75匹を遣わして迎えたと記されています。
海石榴市が、大和王権の都へ入る外交使節を迎える玄関口であったことを伝える記録です。
712(和銅5)年 『古事記』成立
太安万侶によって『古事記』が撰録され、元明天皇に献上されました。大物主神と倭迹迹日百襲姫、大田田根子、神武天皇と伊須気余理比売など、三輪の神々と王権をめぐる物語が記されています。
720(養老4)年 『日本書紀』成立
舎人親王らによって『日本書紀』が完成し、元正天皇に奏上されました。崇神天皇の時代の大物主神祭祀をはじめ、三輪山の神と古代王権との関係を伝える多くの記述が残されています。
8世紀後半 『万葉集』に詠まれた三輪
『万葉集』には、三輪山、三輪の檜原、三輪川など三輪を直接詠んだ歌のほか、「御諸」「三室」などの名で三輪山を詠んだ歌や、題詞から三輪で詠まれたことが分かる歌も数多く残されています。
859(貞観元)年 大神神社、正一位へ
大神神社の神階が正一位に進みます。
926(延長4)年 海石榴市から三輪へ
延長4年(926)、長谷の山崩れによって初瀬川があふれ、海石榴市は大きな被害を受けたと伝えられています。三輪惠比須神社の伝承では、この災害を機に市場が現在の三輪のまちへ移り、市の守護神も現在地へ遷されたとされます。
三輪惠比須神社は、2026(令和8)年に御遷座1100年を迎えます。
927(延長5)年 『延喜式』完成
朝廷が編纂した『延喜式』が完成しました。その「神名帳」には、大和国城上郡の神社として、大神大物主神社、神坐日向神社、狭井坐大神荒魂神社、綱越神社、稔代神社(薬師堂の素盞嗚神社か)など、現在の三輪に関係する神社が記されています。
大神大物主神社は「名神大社」とされ、月次祭・相嘗祭・新嘗祭に預かる重要な神社として位置づけられていました。
10世紀ごろ 椿市、長谷詣の宿泊地としてにぎわう
平安時代になると、長谷寺は都の貴族、とりわけ女性たちの信仰を集めるようになりました。長谷寺へ向かう人々は、三輪山麓の椿市を宿泊や旅支度の場所として利用しました。
『蜻蛉日記』には、藤原道綱母が安和元年(968)に椿市に泊まり、翌朝、長谷寺へ参る人と帰る人が行き交う様子が記されています。
『枕草子』にも、長谷寺へ参る人が必ず椿市に泊まると記され、『小右記』には藤原実資が椿市で灯明の道具などを買わせた記録があります。
1070(延久2)年 三輪周辺の荘園
『興福寺雑役免帳』に、岩田庄、大田庄、大泉庄など、現在の三輪周辺にあたる荘園が記されています。岩田庄には「大神々田」も記され、大神神社と土地との関係を知ることができます。
中世
1283(弘安6)年 三輪村と西御厩庄をめぐる争い
弘安6年(1283)の『春日神社文書』に「三輪村」が現れます。当時の三輪村は春日社の談義料所であったと考えられ、村内には「西御厩庄」がありました。
この年、御厩の雑掌らが三輪村に「違乱」を行ったとして三輪村側から訴えがありました。同年4月26日の長者・鷹司兼平の宣にも「当国三輪村西御厩庄間事」と記され、春日社の談義衆に対応を求めています。
鎌倉時代の三輪が「三輪村」と呼ばれていたことだけでなく、春日社などの所領関係が入り組んでいたことを伝える史料です。
1283(弘安6)年 叡尊、三輪で授戒
西大寺の叡尊が三輪を訪れ、多くの人々に菩薩戒を授けました。
1285(弘安8)年 大御輪寺中興
叡尊によって大御輪寺が中興され、西大寺末寺となりました。
14世紀 三輪西阿
南北朝の争乱の中、「三輪西阿」「玉井西阿」「開住西阿」などと呼ばれる人物が南朝方として活動します。大神神社の神主・高宮勝房と同一人物とする説もあります。
三輪城は、現在の神坐日向神社付近にあったと伝えられています。
1340(興国元・暦応3)年 西阿討伐
室町幕府が仁木頼章に吉野への道の警固と西阿の討伐を命じます。
このころ三輪・戒重など桜井周辺も南北朝の戦いの舞台となりました。
1361(正平16・康安元)年 「市の始めは三輪市」
応永22年(1415)の写しとして伝わる「市場祭文」には、「市の始めは三輪市」とする伝承が記されています。中世には、三輪市が市の起源を語る伝承の中に位置づけられていたことが分かります。
中世 三輪神道
大御輪寺や平等寺など、三輪山麓の神宮寺を舞台として、神道と仏教を結びつけた三輪神道・三輪流神道が展開しました。
15世紀初め 世阿弥『風姿花伝』に「三輪の杉の鳥居」
世阿弥の『風姿花伝』には、申楽の祖とされる秦河勝の出生を語る伝説の中に、三輪が登場します。
「三輪の杉の鳥居のほとりにて、雲客この壷を取る」
欽明天皇の時代、泊瀬川の洪水で上流から壺が流れてきて、「三輪の杉の鳥居」のほとりで拾われました。中には赤子がおり、のちに秦河勝となったと語られています。
これは秦河勝の出生をめぐる伝説ですが、15世紀初めの『風姿花伝』に「三輪の杉の鳥居」が具体的な場所として登場することは、当時の三輪の景観や信仰を考えるうえでも興味深い記録です。
15世紀 三輪山絵図
中世の三輪山とその周辺を描いた「三輪山絵図」が残されています。大神神社を中心に社寺や道などが描かれ、現在の三輪と重ね合わせることのできる貴重な史料です。
1458(長禄2)年11月28日 史料に「佐井庄」
『大乗院寺社雑事記』に、興福寺の「寺務領佐井庄」が現れます。この年は旱魃に見舞われ、年貢として大豆一石五斗を納めたことが記されています。
佐井庄は、三輪山麓の狭井神社・狭井河周辺にあった荘園と考えられています。その後、1472(文明4)年5月5日の『経覚私要鈔』にも「佐井庄」が現れ、大乗院との関係が確認できます。
1459(長禄3)年 箸中の糖粽
『大乗院寺社雑事記』長禄3年(1459)条には、大乗院方に属する四十二の座の一つとして「アメチマキ(箸ノツカ)」が記されています。現在の桜井市箸中には「糖粽座(三輪座)」があり、糖粽を製造・販売していました。
明応3年(1494)頃の『三十二番職人歌合』には「糖粽売」が描かれ、謡曲『嵐山』には「橋中のあめぢ牧」、江戸前期の『毛吹草』には大和の名産として「箸中糖粽」が記されています。
糖粽は、室町時代から江戸初期にかけて知られた三輪山麓の名物でした。
1479(文明11)年2月17日 高宮と越
『大乗院寺社雑事記』に、「然而三輪千部経三高宮与越方公事出来、出陣也、帰陣」と記されています。
三輪の千部経をめぐって、高宮方と越方との間に争いが起きたことが分かります。
高宮家と越家はいずれも三輪氏につながる社家です。現在も大神神社参道南側の高宮には高宮家、北側の馬場本村には越家が残っています。
1496(明応5)年2月 三条西実隆、三輪を通る
公家・歌人の三条西実隆が、吉野から飛鳥、安倍、長谷寺、三輪を経て奈良へ向かいました。
1565(永禄8)年 三輪から麺
『多聞院日記』に、「麺十把、ミワヨリ来」と記されています。
16世紀にはすでに三輪から麺が運ばれていたことを示す記録です。
1569(永禄12)年 三輪で麺を買う
『多聞院日記』には、この年にも三輪で麺を購入した記録があります。
三輪素麺が伝承だけでなく、16世紀の文献から確認できる重要な記録です。
1571(元亀2)年正月6日 三輪市場、大火
『多聞院日記』に、「去六日三輪市場大方焼失了」と記されています。初市の日に三輪の市場の大部分が焼失したことが分かります。
同時代の史料がこのまちを「三輪市場」と記していることも注目されます。
1579(天正7)年 三輪山の木、宇治橋の用材に
『多聞院日記』には、「三輪山ノ木、宇治橋ノ用七百本程キルトリ」と記されています。山城国宇治の宇治橋を架けるため、三輪山から約700本もの木が伐り出されました。日記はさらに、大木を毎日運び出すことを「国ノ悩」と記す一方、橋は「万民上下」にとって大切なものだとも記しています。
1587(天正15)年 「三輪市場恵美酒宮」の本殿造営
三輪惠比須神社に残る最古の棟札に、「上棟 城上郡三輪市場 恵美酒宮」と記されています。
この年、現在の三輪惠比須神社で本殿の造営が行われたことが分かります。また、「三輪市場」と明記されていることから、当時すでにこの一帯が市場として認識され、その市神として「恵美酒宮」が祀られていたことを示す重要な史料です。
1593(文禄2)年 『市祭文』に語られる「三輪の市」
伊勢崎市の木島家に伝わる『市祭文』には、「於大和国三輪里ニ六済之市ト申事興行有」とあり、市の起源を大和国三輪里に求めています。用明天皇の皇子である聖徳太子が西宮大神の御心により、万民のため三輪里に六斎市を開いたという由来を語るものです。
1593(文禄2)年 豊臣秀保、三輪大宮を修復
郡山城主豊臣秀保によって、三輪大宮(大神神社)の修復が行われました。豊臣政権下では大神神社、大御輪寺、平等寺にも所領が与えられ、三輪の社寺も近世の支配体制の中へ組み込まれていきました。
1595(文禄4)年 太閤検地
豊臣政権による検地が行われ、三輪・芝・大豆越・大泉・東田などの村々にも検地帳が残されています。
近世
1600(慶長5)年 島津義弘と平等寺
関ヶ原の戦いから退却した島津義弘が、薩摩へ戻る途中、三輪の平等寺に滞在したと伝えられています。
1607(慶長12)年 市場えびすの辻で辻占
多武峰の御破裂山が鳴動した際、三輪の「市場えびすの辻」で辻占が行われたことが記録されています。市場えびすの辻は、上街道と三輪のまちの道が交わる重要な辻でした。
17世紀以降 三輪市と宿場町
近世の三輪は、市場町であるとともに、上街道を往来する人や大神神社への参詣者を迎える宿場町として発展します。商人が活動し、素麺をはじめとする産業も発達していきました。
1629(寛永6)年以前 沢庵宗彭、三輪山麓に庵を結ぶ
禅僧沢庵宗彭は三輪山の麓に庵を結び、この地で六百首の和歌を詠みました。のちに紫衣事件によって出羽上山へ流され、そこで詠んだ四百首と合わせて『謫居千首』としました。
沢庵は三輪を離れた後も、かつて暮らした三輪山本の庵を懐かしむ歌を残しています。
1660(万治3)年 今西酒造創業
現在も三輪で酒造りを続ける今西酒造は、この年を創業年としています。
酒の神を祀る大神神社の門前で、酒造りの歴史が続いてきました。
1664(寛文4)年 大神神社拝殿再建
江戸幕府第4代将軍徳川家綱によって、大神神社の拝殿が再建されました。これが現在に残る拝殿です。
大神神社には本殿がなく、拝殿の奥にある三ツ鳥居を通して、ご神体である三輪山を拝します。現在の拝殿は桁行9間、梁行4間の切妻造・檜皮葺で、正面に唐破風の向拝を備え、国の重要文化財に指定されています。
1687(貞享4)年 松尾芭蕉、三輪へ
松尾芭蕉が初瀬、三輪、多武峰などを訪れます。
江戸時代 文学の中の三輪
熊沢蕃山『三輪物語』をはじめ、三輪山や三輪のまちはさまざまな文学作品に描かれました。
能『三輪』では、三輪明神と三輪山をめぐる物語が謡われています。
1711(正徳元)年ごろ 『冥途の飛脚』に「三輪の茶屋」
近松門左衛門の人形浄瑠璃『冥途の飛脚』に、梅川と忠兵衛が逃避行の途中で滞在する「奈良の旅籠屋三輪の茶屋」が登場します。三輪には現在も茶屋跡に梅川忠兵衛の碑が残り、茶屋のものと伝わる門も大神神社二の鳥居前に移築されています。近世の三輪が旅人を受け入れる宿泊地であったことを伝える文学と地域の記憶です。
1712年ごろ 『和漢三才図会』の三輪素麺
『和漢三才図会』に三輪が素麺の産地として記されています。
1754(宝暦4)年 『日本山海名物図会』の三輪素麺
『日本山海名物図会』に三輪素麺が名物として紹介されます。細く白い三輪素麺が高く評価され、三輪の旅籠でも旅人を素麺でもてなしていたことが記されています。
1771(明和8)年正月28日 『妹背山婦女庭訓』初演
人形浄瑠璃『妹背山婦女庭訓』が大坂竹本座で初演されました。三輪山の神婚伝説や苧環の物語を背景に、「お三輪」が主要人物として登場します。
1772(明和9)年 本居宣長、三輪を訪れる
本居宣長が吉野への旅の途中に三輪を訪れ、『菅笠日記』にその様子を記しました。一の鳥居に着いた宣長は、「こゝはゆきゝの旅人しげくて。この日ごろの道とは。こよなくにぎはゝしく見ゆ」と、三輪の往来の多さを記しています。
一の鳥居から松並木を進み、大御輪寺の二王門・三重塔・十一面観音・若宮を見たのち、大神神社へ参拝。拝殿から三輪山を拝み、帰路は元の道へ戻らず、山裾の細道を通って金屋へ出て、初瀬へ向かいました。
1787(天明7)年 米騒動、三輪に及ぶ
天明の飢饉による米価高騰のなか、米騒動が三輪にも及びました。
1788(天明8)年 上田秋成、三輪を訪れる
上田秋成が大和を旅し、三輪や安倍文殊などを訪れました。その旅は『岩橋の記』に記されています。
1799(寛政11)年 旱魃と一揆
75日間に及ぶ旱魃となり、三輪をはじめ大和各地で一揆が起こりました。桜井周辺では大坂から運ばれた米によって人々が飢えをしのいだと記録されています。
1830(文政13)年 おかげ参り
全国的に伊勢への「おかげ参り」が広がり、大和でも多くの人々が街道を行き交いました。三輪周辺も大きな賑わいをみせました。
1830(天保元)年 三輪そうめん松田創業
松田勘三郎が三輪で素麺の製造を始めました。現在の三輪そうめん松田へと続き、手延べ三輪素麺の製造を続けています。三輪そうめん松田この頃の三輪周辺では、現在まで続く老舗の商いがいくつも生まれています。すでに享保2年(1717年)には三輪山本が創業しており、嘉永3年(1850年)には池利が創業しています。現在も三輪を代表する素麺製造業が江戸時代の三輪周辺ですでに育っていました。
1844(弘化元)年 白玉屋榮壽創業
初代白玉屋榮壽が、三輪村下市の上街道沿いで菓子屋を創業。大神神社の御菓子調進司を務め、弘化年間には三諸山の名にちなむ「みむろ」を創製しました。創業店の建物は現在も残り、店先には、上街道を行き交う旅人を相手に商いをしていた名残と伝えられる「ばったり床几」が残されています。
幕末・明治
1863(文久3)年 天誅組と三輪
天誅組の変では、敗走した人々と三輪との関わりを示す記録が残されています。
伴林光平は三輪の馬場先、一の鳥居前にあった高田屋に投宿したとされ、三輪に関わる歌も残しています。
また、中山忠光らが三輪山麓の山崎に身を潜めたことを伝える記録もあります。
1867(慶応3)年10月 三輪に伊勢の御祓が降り、「お蔭なり」と踊る
幕末の「ええじゃないか」の熱狂が三輪にも広がりました。法念寺住職聞学の記録には、10月11日に三輪で初めて伊勢の御祓が降り、その後、馬場崎をはじめ町々に日々御祓が降ったとあります。下市・馬場崎では「お蔭なり」と唱え、老若男女を問わず大勢の人々が踊りました。記録には、同年9月上旬から南都でも踊りが大流行していたことが記されています。
1868(明治元)年 神仏分離
明治政府の神仏分離政策によって、長く大神神社の神宮寺であった大御輪寺や平等寺などが大きな影響を受けます。
大御輪寺の十一面観音像は聖林寺へ移されました。
平等寺でも堂宇が失われ、仏像などが周辺へ移されました。
三輪山で長く続いてきた神仏習合の姿が大きく変わります。
1871(明治4)年5月14日 大神神社、官幣大社へ
大神神社が近代社格制度の官幣大社に列せられました。
1872(明治5)年 邏卒屯所
三輪惠比須神社境内に邏卒屯所が置かれました。
近代の警察制度が三輪にも入り始めます。
1874(明治7)年3月3日 第一番小学「三諸館」
三輪村・松之本村・馬場村の連合によって、第三大学区第十四中学区第一番小学「三諸館」が開校しました。現在の桜井市立三輪小学校につながる学校です。
1874(明治7)年 三輪警察署
三輪に警察署が置かれます。
1876(明治9)年 三輪小学
三諸館は三輪小学と称するようになり、周辺の学校も統合されました。
1878(明治11)年11月6日 イザベラ・バード、三輪に宿泊
イギリス人旅行家イザベラ・バードが、京都から伊勢へ向かう旅の途中、三輪に一泊しました。
バードは、三輪を人口約1200人の町と記し、宿の人々の親切さや、部屋から見えた神社へ続く松並木の眺めを高く評価しています。また、巡礼者を受け入れることが三輪の重要な営みになっているとも記しています。宿には女将や娘、女中、子供たちが集まり、西洋人女性の服装をめぐって興味深い交流があったことも書き残しました。
1880(明治13)年4月15日 三輪郡役所が置かれる
郡区町村編制法の施行により、三輪に郡役所が置かれました。「三輪郡」という郡ができたのではなく、所在地の名をとって「三輪郡役所」と呼ばれたもので、のちに「十市式上式下宇陀郡役所」と称しました。管轄したのは、式上郡・式下郡・十市郡・宇陀郡の4郡、300町村。当時の大和国には奈良・三輪・御所・五条の4か所に郡役所が置かれ、三輪は大和東部の広い地域を管轄する行政拠点となりました。
1880(明治13)年 第六十八国立銀行三輪出張所
第六十八国立銀行が三輪に出張所を置きます。
郡役所が置かれた三輪は、行政だけでなく金融面でも地域の拠点となっていきます。
1886(明治19)年 三輪村・松之本村・馬場村が合併
三輪村・松之本村・馬場村が合併し、新しい三輪村となりました。
1887(明治20)年 三輪尋常小学校
三輪小学が三輪尋常小学校となります。
1887(明治20)年 フェノロサ、聖林寺の十一面観音を調査
アメリカ人哲学者アーネスト・フェノロサらが聖林寺を訪れ、秘仏とされていた十一面観音を開扉しました。十一面観音は、もとは三輪山の大御輪寺の本尊で、1868(慶応4)年の神仏分離に際して聖林寺へ移されたものです。
フェノロサはその価値を高く評価し、保護を提唱しました。その後、日本では古社寺や古美術を保護する制度の整備が進み、1897(明治30)年に古社寺保存法が成立。十一面観音も旧国宝に指定されました。
1889(明治22)年4月1日 三輪村・金屋村・上之庄村が合併
市制・町村制の施行により、式上郡三輪村・金屋村・上之庄村が合併し、新しい三輪村が成立しました。
1891(明治24)年1月7日 三輪町成立
三輪村が町制を施行し、三輪町となりました。
1895(明治28)年 三輪素麺組合結成
三輪素麺組合が結成されます。製造業者だけでなく、製粉や流通などを含む三輪素麺産業が近代的な組織へ移っていきます。
1895(明治28)年 裁判所出張所
奈良区裁判所三輪出張所が置かれました。
明治時代 水車と素麺
三輪周辺では水車が小麦の製粉などに利用され、素麺産業を支えました。小麦の栽培、製粉、製麺、商人による販売までが結びつき、三輪を代表する産業を形成していました。
1897(明治30)年4月1日 磯城郡成立
式上郡・式下郡・十市郡の三郡が統合され、磯城郡が成立しました。これにより、それまで式上郡に属していた三輪町は磯城郡三輪町となりました。
1898(明治31)年5月11日 三輪駅開業
奈良鉄道京終―桜井間の開通に伴い、三輪駅が開業しました。当時の駅周辺には湿田が広がっていましたが、鉄道開通後、駅前通りや栄町などの整備が進み、上街道沿いに発達してきた三輪の町は、次第に駅方向へも広がっていきました。
1899(明治32)年10月14日 奈良まで鉄道がつながる
奈良鉄道奈良―京終間が旅客開業し、三輪から奈良まで鉄道で結ばれました。当時の資料では、三輪―奈良は約50分、三等運賃17銭、三輪―桜井は2銭とされています。
1911(明治44)年4月1日 三輪尋常高等小学校
三輪尋常小学校に高等科が置かれ、三輪尋常高等小学校となりました。
大正・昭和
大正~昭和初期 三輪素麺の全盛期
三輪を中心とする地域には多数の製麺家があり、三輪素麺の生産が盛んになります。
三輪駅からも素麺が貨物として送り出されました。
1914(大正3)年4月 三輪駅舎を全部改築
1898(明治31)年の開業から16年後、三輪駅の駅舎が全部改築されました。現在の木造駅舎は、この大正3年の改築によるものとする資料がある一方、昭和9(1934)年建築とする資料もあり、建築年代についてはなお検討を要します。
1924(大正13)年10月30日 三輪小学校、現在地へ
三輪尋常高等小学校が現在の場所へ移転しました。
1926(大正15)年 三輪の西瓜から「大和3号」
奈良県農事試験場が、三輪町の在来西瓜から「大和3号」を育成しました。大和3号はその後の西瓜の品種改良に利用され、日本の近代的な西瓜育種につながっていきます。
三輪駅から大和西瓜を貨車へ積み込む様子を写した写真も残されており、三輪が西瓜の生産地であるとともに、その集散・出荷地でもあったことが分かります。
1926(大正15)年 三輪警察署、桜井へ
三輪警察署が桜井へ移され、桜井警察署となりました。
1926(大正15)年10月3日 三輪町信用組合
三輪町信用組合が設立されました。
1928(昭和3)年 大和3号から新しい西瓜へ
三輪町在来西瓜から生まれた大和3号と「甘露」との交配による品種改良が進められ、「新大和」系統など、その後の西瓜育種へつながっていきました。
1928(昭和3)年 三輪町立図書館
三輪小学校内に三輪町立図書館が設置されました。
1930(昭和5)年 三輪土木工営所
旧郡役所庁舎を利用して三輪土木工営所が置かれたとされています。
昭和前期 三輪駅と貨物
三輪駅には貨物を扱う施設や側線があり、三輪素麺や大和西瓜などが鉄道で各地へ送り出されました。
当時の三輪駅で、素麺や西瓜を貨車へ積み込む写真が残されています。
1941(昭和16)年 三輪国民学校
三輪尋常高等小学校が三輪国民学校となりました。
戦時中 三輪素麺と統制
戦時中の食糧統制によって、小麦を原料とする三輪素麺の生産も大きな影響を受けました。
1946(昭和21)年 奈良県油糧工業所
三輪町に奈良県油糧工業所が創業し、菜種、大豆、米糠などから油を搾りました。
1947(昭和22)年 三輪小学校
学制改革によって三輪国民学校が三輪小学校となりました。
1947(昭和22)年4月22日 志貴中学校開校
新制中学校として、三輪・織田・纒向の三町村による「三輪・織田・纒向三町村組合立志貴中学校」が開校しました。当初は独立した校舎がなく、三町村の各小学校の一部を三輪教場・織田教場・纒向教場として使用しました。
1949(昭和24)年には現在地に新校舎が完成し、三つの教場に分かれていた生徒が一つの校舎に集まりました。
1947(昭和22)年 三輪素麺、戦後の再出発
奈良県三輪素麺工業協同組合が組織され、三輪素麺産業が戦後の再出発をします。
1955(昭和30)年2月15日 桜井線の全旅客列車を気動車化完了
国鉄桜井線の旅客列車がすべて気動車(ディーゼルカー)に統一されました。
1955(昭和30)年7月10日 大三輪町成立
三輪町、織田村、纒向村が合併し、大三輪町が成立しました。
1956(昭和31)年1月1日 志貴中学校を大三輪中学校に改称
前年の三輪町・織田村・纒向村の合併による大三輪町成立を受け、大三輪町立志貴中学校が大三輪町立大三輪中学校と改称されました。
1959(昭和34)年4月1日 大三輪町立三輪幼稚園発足
大三輪町立保育所を厚生省所管から文部省所管へ移管し、大三輪町立三輪幼稚園に改称し、引き続き三輪小学校校舎を使用して保育が行われました。
1963(昭和38)年4月1日 桜井市へ
大三輪町が桜井市に編入されました。三輪幼稚園、三輪小学校、大三輪中学校も桜井市立となります。
1971(昭和46)年 三輪を走る蒸気機関車
桜井線の三輪付近をC58形蒸気機関車が貨物列車を牽いて走る写真が残されています。
その後、貨物列車はディーゼル機関車牽引へ移っていきました。
1977(昭和52)年 平等寺再興
神仏分離によって廃寺となった平等寺が、三輪山平等寺として再興されました。
1980(昭和55)年3月3日 桜井線電化
奈良―高田間が電化されました。
三輪駅では電化にあわせて跨線橋が設けられ、それまでホーム間を結んでいた構内踏切が廃止されました。それ以前は、乗客が線路を横切って反対側のホームへ渡っていました。通路には鉄板が設けられ、駅員がこれを上げ下げしていました。鉄板を上げて裏返すと階段が現れる仕組みになっていました。
1983(昭和58)年4月1日 三輪駅の貨物輸送が終わる
桜井線の貨物営業が終了し、三輪駅が担ってきた鉄道貨物の時代も終わりました。
1984(昭和59)年4月1日 上之庄が三輪小学校区から分離
桜井西小学校が開校。桜井小学校区の川合・戒重、城島小学校区の粟殿、三輪小学校区の上之庄を新しい校区として編成しました。1889(明治22)年に三輪村・金屋村・上之庄村が合併して以来、三輪の行政区域を構成してきた上之庄は、このとき三輪小学校区から分離しました。
1986(昭和61)年5月28日 大神神社大鳥居竣功
1984(昭和59)年10月13日の昭和天皇御親拝を記念し、御在位60年を奉祝して大神神社の大鳥居が建立されました。高さ32.2メートル、柱間23メートル。三輪山を背景に立つ大鳥居は、その後の三輪を代表する景観の一つとなりました。
1987(昭和62)年 JR西日本へ
国鉄の分割民営化によって、三輪駅はJR西日本の駅となりました。
平成・令和
2002(平成14)年3月 三輪駅無人化
三輪駅への駅員配置が終了し、無人駅となりました。それまでは駅員が乗車券の販売や改札を行うほか、三輪を訪れた人への案内役も担っていました。大神神社の最寄り駅として長く有人駅であった三輪駅は、この時から現在につながる無人駅となりました。
2008(平成20)年11月 三輪駅の売店が営業終了
三輪駅で長く営業していた売店(キヨスク)が営業を終了しました。売店には「藤本のおばちゃん」と呼ばれて親しまれた名物店員がおり、駅を利用する人や三輪を訪れる人を迎えていました。2002(平成14)年に駅員の配置がなくなった後も売店は営業を続け、無人化した三輪駅に人がいる場所として三輪の玄関口の顔となっていました。
2010(平成22)年3月13日 万葉まほろば線
桜井線に「万葉まほろば線」の愛称が付けられました。
2016(平成28)年3月29日 三輪素麺、GI登録
「三輪素麺」が地理的表示(GI)保護制度に登録されました。
16世紀の『多聞院日記』に見える三輪の麺から、近世の名物、近代産業を経て、現在へと続いています。
年表から見えてくる三輪
こうして年代を追ってみると、三輪の歴史は「大神神社の門前町」という言葉だけでは収まりません。
古代には三輪山を中心とする祭祀の地であるとともに、海石榴市という交通と交易の場がありました。
中世には大神神社と神宮寺、社家を中心とする社会があり、その一方で、16世紀の史料にはすでに「三輪市場」という言葉が現れます。
近世には、市場町、宿場町、参詣のまちとして商人や旅籠が集まり、三輪素麺をはじめとする産業が発達しました。
明治になると、第一番小学、警察署、郡役所、銀行、裁判所などが置かれます。そして1898年、そこへ三輪駅が開業しました。鉄道ができたことによって三輪が地域の中心になったのではなく、すでに地域の拠点であった三輪に鉄道がやって来たことが、年表から見えてきます。鉄道は参詣者を運ぶだけでなく、三輪素麺や大和西瓜などを各地へ送り出しました。
三輪の在来西瓜からは「大和3号」が生まれ、その系統は日本の西瓜の品種改良へとつながっていきました。
信仰、交通、市場、産業、教育、行政、文学、芸能。
それぞれを別々に見るのではなく、長い時間の中で重ね合わせてみることで、三輪というまちの姿が少しずつ見えてきます。
この年表は、まだ途中です
三輪について書かれた古文書や日記、町に残る記録、写真などを調べながら、随時追加・修正しています。年代の誤りや、年表に加えることのできる史料・記録などをご存じでしたら、三輪ことぶれ屋までお知らせください。
一つ一つの記録をつなぎながら、三輪というまちが歩いてきた時間を残していきたいと思います。
主な参考史料・文献
『古事記』
『日本書紀』
『万葉集』
『延喜式』
『興福寺雑役免帳』
『春日神社文書』
『経覚私要鈔』
『大乗院寺社雑事記』
『多聞院日記』
『日本山海名物図会』
『桜井市史』上・下
『大三輪町史』
『大神神社史料』
奈良県農業試験場編『大和の農業技術発達史』
『三輪小学校開校百周年記念誌』
その他、奈良県・桜井市・国立公文書館・国立国会図書館等所蔵資料
