三輪そうめんは、どのように生まれたのか

ほんでみぃアカデミー 研究ノート02

――索餅からではなく、乾麺の技術から考えてみる

三輪は「そうめん発祥の地」といわれています。では、三輪でそうめんは、いつ、どのようにして生まれたのでしょう。

そうめんの歴史を調べると、よく出てくるのが「索餅(さくべい)」という古代の食べ物です。大陸から日本へ索餅が伝わり、それが索麺となり、素麺となって、三輪素麺へつながった。
索餅 → 索麺 → 素麺 → 三輪素麺
おおよそ、このような説明です。

ところが、古代・中世の史料を、食べ物の「名前」だけでなく、「どうやって作ったのか」「どのように食べたのか」「どこで売り買いされたのか」という視点から調べていくと、どうも一本の線では説明できないことが分かってきました。

そこで、いったん索餅から離れて考えてみることにしました。


索餅が細くなって、そうめんになったのか

古代の漢語で「餅」という字は、現在の日本の餅だけを意味するものではありませんでした。小麦粉などを水で練って作る食品を広く指しています。

日本の古代史料にも「索餅」が登場します。しかし、その索餅がどんな形をして、どのように作られていたのかについては、分からないことがあります。

一方、大陸では早くから、麺を「切る」だけでなく、生地を「引き延ばす」技術も発達していました。6世紀の農業技術書『斉民要術』には「水引」と呼ばれる麺があり、生地を手で引き延ばしています。

だとすれば、古代の索餅が日本でだんだん細くなって、現在の素麺になったと考える必要はありません。
食べ物の「名前の歴史」と、「作り方の歴史」は、いったん分けて考えた方がよさそうです。

大陸には「手延べ素麺」に近い技術があった

そこで注目したのが、漢籍の『事林広記』に記された「索麺」の作り方です。

そこには、
油を使って搓する
→ 覆って乾燥を防ぐ
→ 休ませる
→ さらに延ばし、捩る
→ 棒に掛ける
→ 乾燥させる
→ 長く保存する

という工程が記されています。

なかでも面白いのが「用油搓」という言葉です。小麦粉の中へ油を練り込むというより、生地の表面に油を使いながら延ばしていった可能性があります。

細くする。長くする。切らずに延ばす。棒に掛ける。乾燥させる。そして保存し、束ねて運ぶ。

これは、現在の手延べ素麺につながる技術を考えるうえで見逃せません。

そこで一つの仮説が浮かびました。
日本の素麺は、古代の索餅が少しずつ変化してできたというより、中世の大陸で発達していた乾麺を作る技術が日本へ伝わったのではないか。

宋・元との交流が盛んだった中世には、禅僧や寺院を通じてさまざまな大陸の食文化が日本へ入っています。ただし、「誰が素麺の製法を日本へ伝えた」というところまで分かる史料は、今のところ見つかっていません。
これは、まだ仮説です。


大和では、かなり早く素麺を食べていた

ここから三輪に近づいてきます。

嘉元4年(1347)7月7日、法隆寺の記録『嘉元記』に「サウメム」が出てきます。しかも「ウトム(うどん)」とは別に書かれています。
14世紀半ばの大和では、すでに素麺がうどんとは違う食べ物として認識されていたことになります。

さらに文安4年(1447)、興福寺大乗院門跡・経覚の日記『経覚私要鈔』には、
「素麺五束」
が現れます。
「五束」というところが気になります。少なくともこのころには、素麺は束ねて贈ったり運んだりできる食品になっていました。

索餅と素麺は同じものだったのか

さらに面白い史料があります。

文明16年(1484)7月7日の『多聞院日記』には、
「嶋庄より公事物素麺五把持参」
とあります。嶋庄は、現在の明日香村島庄にあたります。

ところが、その送り状では同じものが「索餅」と書かれていたとされています。
「素麺」と「索餅」。
同じ品物に二つの名前が使われていたことになります。

ところが時代が下った延宝4年(1676)の『御湯殿上日記』では、
「そろ、さくへいも出る」
と、素麺を意味する「そろ」と索餅が別々に出されています。

どうやら「索餅」という名前が、いつの時代も同じ食品を指していたわけではなさそうです。


でも、七夕はずっと続いている

ここで日付に注目してみます。
少なくとも平安時代には、7月7日の節供と索餅が結び付いていました。そして、

890年 索餅
1347年 法隆寺「サウメム」
1484年 嶋庄「素麺五把」/送り状では「索餅」
1538年 七夕に素麺、「嘉例」
1569年 三輪で麺を購入
1676年 宮中で「そろ」と「さくへい」

と並べてみると、別のものが見えてきます。索餅そのものが少しずつ姿を変えて素麺になった、と考えなくてもよいのではないでしょうか。

むしろ、
7月7日に、小麦粉を加工した特別なものを供え、食べる。
その「食べる場」が長く受け継がれ、その中へ中世になって素麺が入ってきた。食べ物が変わっても、七夕という文化は続いていた。
そう考えると、索餅と素麺の不思議な関係が少し分かりやすくなります。


では、なぜ三輪だったのか

ここからが、ほんでみぃアカデミーとして一番知りたいところです。

永禄8年(1565)の『多聞院日記』に、
「麺十把、ミワヨリ来」
とあります。さらに1569年には、多聞院が三輪で麺を買っています。
これだけでは「三輪で作っていた」とまでは断定できません。
しかし16世紀後半には、三輪で麺を把単位で扱い、販売し、南都へ供給する流通が成立していたことが分かります。

では、なぜ三輪だったのでしょう。

素麺より先に「三輪の市」があった

実は三輪には、素麺よりずっと前から「市」がありました。建久元年(1190)の藤原隆信の歌には、すでに「三輪の市」が出てきます。
つまり三輪は、素麺が現れるより前から、人と物が集まり、売買する場所でした。

新しい乾麺の技術が入ってきたとき、何もない農村が突然素麺産地になったのではありません。
すでに「売る」「買う」「集める」「外へ運ぶ」という仕組みを持ったまちだった。
ここは、三輪素麺の成立を考えるうえで大事なところだと思います。

お寺という大きな「お客さん」がいた

もう一つ見えてくるのが南都の寺院です。

1347年には法隆寺で「サウメム」。
1447年には興福寺大乗院で「素麺五束」。
1484年には明日香の嶋庄から多聞院へ「素麺五把」。
そして1565年になると、三輪から多聞院へ麺が届きます。

素麺はまず寺院社会の食文化や贈答、年中行事の中で需要を持ち、その需要を支える生産と流通が大和の中に生まれていったのかもしれません。


そうめん作りには「油」がいる

ここでもう一度、『事林広記』の「用油搓」に戻ります。
油を使って延ばす技術が日本へ入ったとすれば、当然、油を手に入れられることが必要です。

調べてみると、中世の大和には、すでに油の生産と流通の仕組みがありました。現在の奈良市油阪町付近には、興福寺大乗院を本所とする符坂油座がありました。南大和などから木実や荏胡麻を集め、油を製造・販売していました。橿原市八木町周辺の矢木には、荏胡麻などを集荷する仲買組織もありました。さらに符坂油座の座衆は、長谷寺でも油の販売に関係していました。

地図を広げてみると、
南都――三輪――初瀬・長谷寺
という道筋があり、その西に矢木があります。

三輪は、こうした大和の物資流通の中に位置していたことになります。
ただし、ここは注意が必要です。中世の符坂油座の史料に現れる油は、主として灯油です。その油が三輪の素麺作りに使われたという史料が見つかったわけではありません。
分かるのは、植物油を作り、集め、売り、運ぶ経済の仕組みが、中世大和にはすでに存在していたということです。

現在の三輪手延べ素麺には綿実油が使われますが、最初から綿実油だったとも考えられません。中世の素麺では、いったい何の油を使ったのでしょう。これも、これから調べたいことの一つです。


三つの歴史を重ねてみる

ここまで調べてきて、三輪そうめんの成立は一本の歴史ではなく、三つの歴史を重ねて考えると見えやすくなることが分かってきました。

技術の歴史
大陸で発達した、油を使って延ばし、棒に掛け、乾燥させ、保存・運搬する乾麺の技術。

名前と食文化の歴史
古代以来の索餅と、中世に登場する索麺・素麺。そして七夕に小麦粉を加工した食品を食べる文化。

産業の歴史
寺院という需要地があり、市場があり、商品を束や把で売買し、油などの原料を流通させる経済があり、その中から三輪が麺の供給地として姿を現す。

この三つの歴史は、同時に始まったわけではありません。別々に流れてきた三つの歴史が、大和で重なっていった。
その先に三輪素麺があったのではないか。

いまのところ、そんな姿が見えてきています。


「三輪発祥」を、もう一度考えてみる

「三輪はそうめん発祥の地です」と聞くと、三輪の誰かが世界で初めて細い麺を発明したようにも聞こえます。けれども、今回調べて見えてきた歴史は、それとは少し違います。

  • 大陸で発達した乾麺の技術が日本へ伝わる。
  • 日本にあった食文化と出会う。
  • 寺院という需要地、市場、交通、原料の流通と結び付く。
  • そして、その技術を地域の産業として根付かせていく。

その初期の重要な場所の一つが、三輪だったのではないでしょうか。

そうだとすれば、「三輪発祥」は、
日本における手延べ乾麺技術の早期定着地・産業化の地
という意味で捉え直すことができるかもしれません。

もちろん、まだ分からないことがあります。

1347年の法隆寺。
1447年の大乗院。
1484年の嶋庄。
そして1565年の三輪。

この間、素麺はいったいどこで、誰が作っていたのでしょう。大陸から入ってきた乾麺の技術は、どの道を通って大和へ入り、奈良盆地南東部へ広がり、三輪に根付いたのでしょう。

ほんで、三輪では何があったんやろ。
ここから先は、まだ調べてみなければ分かりません。ほんでみぃアカデミーの研究は、ここから続きます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました