古代海石榴市のあった初瀬川河畔に「仏教伝来の地」の碑
金屋初瀬川河畔のつば市ざくらが花盛りでございます。馬出橋のたもと、東大寺別当 平岡定海師の書による「佛教傳来之地」の碑もさくらに彩られています。
欽明天皇の御代、百済の聖明王から献上された金銅の仏像と経典が、海石榴市に上陸し、磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)に到着しました。仏教の公伝です。
日本書紀によると552年ですが、現在は538年説が有力です。
崇めるべきか、それとも排すべきか、それが問題だ
この天竺渡来の神を崇めるべきか否か。欽明天皇は臣の豪族たちに委ねます。
受け容れて崇めるべきとする蘇我氏と、古来の神を崇めるべきで蕃神は排すべきとする物部氏・中臣氏の間で、崇仏・排仏論争が起こります。
この辺りまでは、普通に調べれば知ることができますね。
次の項で、深掘りしてみましょう。
大仏開眼
いきなり奈良時代に飛んでしまいますが、聖武天皇の発願により752年に東大寺の大仏が開眼します。
どうやら仏教は受け容れられたようです。
仏教公伝と大仏開眼には何の関係があるのかと言いますと、当時の正史であった日本書紀によると、仏教公伝は552年。そして、大仏開眼は752年。そうです。東大寺の大仏建立は、仏教公伝200年記念事業だったのです。
三輪山の麓、初瀬川の畔の欽明天皇の磯城島の都に、印度伝来の仏像と経典が伝わったという出来事を起点にし、その200年後を記念して東大寺の大仏さまが建立されたのです。
だからこそ、初瀬川河畔の佛教傳来之地の碑は東大寺の別当(最高責任者)が揮毫されたのです。
二月堂のお水取
東大寺二月堂のお水取。正式には修二会。3月1日から14日まで練行衆によって悔過法要が厳修されます。
1200年以上に渡って一度も途絶えたことがない「不退の行法」と呼ばれ、令和4年が第1271回でした。
この東大寺修二会が始まったのが、つまり第1回の修二会が行われたのが、752年。大仏開眼と同じ年なのです。
752年は奈良仏教にとっては特別な年でした。釈尊入滅から1501年目の末法元年であると考えられていたのです。
仏像はどこへ
さて、百済の聖明王から欽明天皇に献上された金銅の仏像は、その後どうなったのでしょうか。日本に仏教の縁を結んだものすごくありがたいほとけさまですからね。
崇仏派の蘇我稲目が仏像を預かって礼拝しました。すると疫病が流行してしまったため、排仏派の物部守屋が「仏教を受け入れたせいだ」と主張して寺を燃やし、仏像を難波の堀江に投げ捨ててしまったのです。
残念です。水中に沈んでしまいました。
しかし、推古天皇8年(600年)、信濃国の本田善光が国司のお供として飛鳥の都に上ったとき、難波の堀江で偶然この金銅仏を発見。
信濃に持ち帰って自宅にお祀りし、その後、長野に遷して建立したのが善光寺。
印度から百済を経て、三輪山の麓、初瀬川の畔、欽明天皇の磯城島の都で日本に仏縁を結んだ金銅仏は、信濃の善光寺御本尊、絶対秘仏として祀られ、1400年に渡り民衆の信仰の拠り所として崇敬を集めているのです。
すごいですね。
おまけ
物部守屋が金銅仏を投げ捨て、本田善光が金銅仏を発見した「難波の堀江」とはどこでしょう。
大阪市西区北堀江に和光寺というお寺があり、通称「阿弥陀池」として親しまれています。お寺にある池が「阿弥陀池」で、この池が本田善光が善光寺本尊となる金銅仏である一光阿弥陀三尊仏を救い上げた「難波の堀江」の跡だとされています。
上方落語の「阿弥陀池」でも有名です。
三輪から始まる
三輪から始まる。
三輪山の麓、初瀬川の畔、欽明天皇の磯城島の都に伝来した金銅仏の歴史をたどる時空の旅、いかがでしたでしょうか。
話を信濃の善光寺に戻しまして、
善光寺御本尊は絶対秘仏。誰も見たことがありません。その代わりに御前立像つまりレプリカが作られていまして、レプリカなんて言ってしまえば重みがない。お身代わりとされるその像さえも7年に一度御開帳されるというありがたさ。
令和4年はその年に当たり、4月3日から6月29日まで善光寺前立本尊御開帳が行われています。お参りして日本に仏縁が結ばれた仏教公伝の歴史を改めて味わいたいものでございます。
未来へ
今年は2022年。
仏教公伝は、538年または552年。16年後の2038年または30年後の2052年には、仏教公伝1500年を迎えます。
奈良仏教による釈尊入滅から考えると、2052年はなんと釈尊入滅3001年に当たります。
三輪山の麓、初瀬川の畔、欽明天皇の磯城島の都で、我が国に仏縁が結ばれてから、
日本文化に多大な影響をもたらし、私たちの精神の血肉と化した、日本仏教の記念すべき年はもうすぐそこにやってきますよ。
おしまい。ではなくて、未来につづく。
コメント