天智天皇の御代、みやこがあすかから近江の国(今の滋賀県)にうつることになりました。近江に行ってしまうと、あすかのみやこからのぞんでいた三輪山を見ることができなくなります。ふたたび大和の国に帰ってこられないかもしれない遠い国への旅。新しい志賀のみやこにむかうその日、かなしくも雲にかくれて三輪山は見えませんでした。いつも人々を見守ってくださる大物主さまのしずまる三輪の山。額田王は、こころに三輪山の美しいすがたをうかべながら歌をよみました。
「うま酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の間に いかくるまでに 道のくま いさかるまで つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見さけむ山を 心なく 雲の かくさふべしや」
ああ、美しくとうとい三輪の山よ、日に日にあすかのみやこからあおぎ親しんできた神います三輪の山よ。うまさけ三輪の山が、あをによし奈良の山々のまにかくれてしまうまで、道のまがりまがりをかさねるまで、しみじみとよく見つつ行きましょう。いくたびもふりかえってながめましょう。これほどまでになごりおしい三輪の山を、こころなくも雲がかくしてよいものでしょうか。
天智天皇の近江遷都(667年)で飛鳥を離れる額田王が、大和の国との別れを惜しみ、心に残しておきたいと詠んだのは、飛鳥の都から日々望んでいた三輪山でした。三輪王朝(古代の三輪山を中心とした地域が政治の中心だった時代)のころからおよそ400年あまり、飛鳥の大宮びとにとってもゆかり深い三輪山は、神と崇める大切な山だったのです。額田王は、飛鳥を発ってから平城山を越えて大和の国原が見えなくなるまで、何度も三輪山を振り返ります。そして先の歌と同じ気持ちで反歌を重ね、名残を惜しみました。
「三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや」
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